秩父山中に逃げ込んだ
隠れ切支丹(キリシタン)

(切支丹(キリシタン)宗門禁止令の御触書が書かれていた太田の高札場)

 出牛から西10kmの秩父郡吉田町門平の高札場の高札板には今もキリスト教を禁止した御触書きを記した文字をいささかながら読取る事ができます、高札板には「きり志たん宗門」、「御制禁」、「ばてれん」の文字を確認する事ができます。

 秩父郡に潜伏した隠れ切支丹(キリシタン)のこの後の消息はわかりませんが後々の記録、伝承などが無い事から一掃されたのかもしくは弾圧に屈して教えを捨てたのか消滅したと考えられます。

秩父方面へ
武州の城topへ

 秩父市太田にも禁教令を記した高札場がありました、現在太田高札場の御触書の文字は消えていて読取る事はできませんがキリスト教を禁止した内容が書かれていたと云われています、幕府は秩父郡内に73箇所の御禁教の高札場を設けます、江戸初期秩父郡内には70余の村落が在りこの事から大凡1村に1箇所の御禁教を記した高札場が在った事に成り当時郡内で隠れ切支丹(キリシタン)に対する徹底した取り締まり弾圧が行われていたものと考えられます。

(太田の高札場)

(門平の高札場)

門平、太田の高札場に掲げられた切支丹(キリシタン)宗門禁止令

 神川町渡瀬において切支丹(キリシタン)宗門布教の罪で殺害された山口平之進の従者で切支丹(キリシタン)宗門寺院善明寺の門前百姓と成った中金、竹内の2名うち1名が難を逃れて秩父山中に逃げ込んだと記録にあります、彼は秩父郡金沢(皆野町)の出牛で隠れ切支丹(キリシタン)と成り新に布教活動を再開します。

 出牛地区の南側に大正6年に立てられた道標が在り「児玉町、本庄町に至る」、「秩父町、小鹿野町に至る」と刻まれています、古来出牛地区には神川方面と秩父方面を結ぶ街道筋通っていたのでしょう、隠れ切支丹(キリシタン)と成った山口兵之進の従者はその街道筋を通り出牛に入ったと考えれます。

秩父郡皆野町の出牛地区に潜伏した隠れ切支丹(キリシタン)

 出牛地区の出牛とは戦国末期から江戸期にかけてゼウス(Deus)を訳してあてた漢字と云われています、また出牛の何処かに南蛮地蔵と呼ばれる地蔵が祀られているそうです。

(秩父郡皆野町出牛地区の集落)

 神川町渡瀬の切支丹(キリシタン)宗門「善明寺」